八中日記

4月22日(水) 学校探検(2)  「しらさぎの伝説」

公開日
2020/04/22
更新日
2020/04/22

学校行事

初夏を思わせるような陽気です。

「学校探検」を続けます。
体育館には校歌が掲げられています。
校歌の下敷きになったのが碑文谷地区に古くから伝わる「しらさぎの伝説」です。紹介します。
昭和40年頃、第6代校長 大脇憲三先生がPTA広報誌に書き残したものです。

「我が八中の校歌の歌詞、又校章にデザインされた「さぎ草」の由来を、皆様ご存じでしょうか。
さぎ草は高さ15〜20センチメートルの多年草の湿地ランの一種で、世田谷区の花に指定されています。昔、碑衾村と言われた八中所在地あたりから、世田谷区奥沢鷺の谷にかけて、田圃のあぜ道にやさしい白い花を咲かせていたと言われております。

この小さな花には次のような悲しく、美しい話が伝えられています。
今から650年程前の室町時代のことです。世田ヶ谷城主の吉良氏が住んでいました。
この城主の奥方は、奥沢城主大平氏の娘でトキワ姫といい、戦国の世に見られた両城主との間をつなぐための政略結婚でした。しばらくは平和な生活が続きましたが、ある時、領地の境界の争いから遂に二人の城主が戦うことになりました。大平方の一隊は吉良方の世田ヶ谷城近くまで攻め込みました。
トキワ姫は大変この戦いに心を痛め、講和か救援を頼むほかはないと思われ、以前より可愛がっていた一羽の白鷺を使いとして、脚に手紙を結びつけて放ちました。白鷺は城の上空を二、三回飛び回ると、古巣である奥沢城に向かって飛び去りました。

ちょうど今の八中あたりまで来た時、敵兵に見つけられ、弓で射ち落とされてしまいました。羽を打ち抜かれた白鷺は、白い体を真っ赤な血で染めながらもバタバタと懸命に飛び上がろうともがきましたが、力尽きて息絶えました。
世田ヶ谷城はトキワ姫と白鷺の努力もむなしく敵の手に落ち、トキワ姫も自害しました。

しかし、その後白鷺の死んだ田圃のあたりから一本の草が生え、白い花をつけました。
よく見ると白鷺が足に短冊をつけて飛んでいるようです。
これを知った人々は、白鷺の魂が花になって生まれ変わり、自分の主人のために信義に生きようとした姿だと白鷺の死を悼み、さぎ草を形見として大切に育て、またこの話を永く伝えました。
今は九品仏のさぎ園など限られた場所でしか見られなくなったさぎ草ですが、八中が創立された折、校章にデザインされ、また校歌の作詞を依頼された佐藤春夫先生もこの伝説に感銘を受けられ、「信義に生きし、白鷺の形見と咲ける野の花ぞ…」と歌い込まれたそうです。」

作詞者 佐藤春夫さん直筆の校歌が校長室に飾られています。大変貴重なものです。
「しらさぎの伝説」を胸に、八中生は充実した学校生活を送っています。